「今は、手紙を渡さないで欲しいんです。」




懇願でも、切望でもなかった。

ただただ、無感動に発せられた事の葉は、あっさりと空気に溶けていった。


僕は、最近耳が遠くなったんだよと、自嘲するように言っていたハーバルさんの言葉を思い出して、

はたして、なんの色も持たない僕の言葉が彼に聞こえたのかどうか不安になった。



ハーバルさんは、パチリとひとつ瞬きをした。彼の雪のような睫が震えるように瞬いた。

僕は、その姿をどこかぼんやりと眺めながら、ハーバルさんが一度で聞き取ってくれたことに感謝していた。

もう一度、同じように言えるかどうか自信がなかったからだ。




暖かな紅茶が、頼りげない靄を出していた。

空に消えていった、あの白い煙を思い出して、僕は一瞬だけ目を瞑った。



あの空を見たのは、何年前だったのだろうか。


日にちを。あの時の空の色を。流れていった白い雲を。

正確に思い出すことが出来るのに、僕の気持ちはそれを思い出すことを拒否していた。

白い、冷たい空なんか、二度と見たくなかった。



僕の頭の中でのアカリは、いつだって僕の傍にいて、笑っていたり泣いていたり怒っていたりしていてほしかった。

チハヤって、僕の名前を呼んで。僕もアカリを呼ぶ。当たり前だと思ってた。当たり前であってほしかった。

そんな風景の数々を僕は何度も頭の中に思い描いた。それが、心の傷の慰め方だった。

なのに、アカリを思い出す度に、

最後に勝手に浮かんでくるのは、いつだってベッドに身体をうずめたアカリの姿だった。弱々しく微笑むアカリの姿だった。






二人の間で、時間が止まってしまったかのようだった。


コチコチと、たしかにキルシュ亭の壁にかけられた時計は動いているのに、

僕とハーバルさんだけ、時からはぐれてしまったみたいに、二人とも動かなかったし、何も言わなかった。





ハーバルさんは、両手を机の上に乗せると、ゆったりと指を組んだ。

僕は、俯いていた顔をあげて、ハーバルさんを見た。



「君は、もう少しアカリ君の気持ちを知るべきなんじゃないかな。」


ゆるやかに、諭すように。ハーバルさんの声には、そんな温かさがあった。

僕の心の中にそれは、沁みるように響いてきた。

けれど、ハーバルさんの声にどんなに温かさがあっても、僕にとってその言葉は、心にゆっくりと冷たい影を落としていった。




頭の中で、アカリの顔がぽつりぽつりと浮かび、そしてまた消えていった。


確かに思い出すことが出来るアカリの表情が、年々少なくなっていっている気がする。

靄がかかったかのように、夢から覚めた後のように、頭で描くアカリの存在は、不確かであやふやなものだった。


それは、本当の彼女の姿じゃない。そう、分かっている。

でも、頭の中でさえもう彼女に会えなくなってしまったら、僕はきっと自分を許せないのだ。


だから今は、そっと、ゆりかごに抱かれる赤ん坊のように、彼女の記憶をゆっくりと自分の中で育てていきたかった。





「・・・知ろうと、しました。」


からからに乾いた喉の向こうから搾り出した言葉は、小さく掠れていた。


「アカリの手紙を読んで、アカリの気持ちを知りたかった。でも、アカリの気持ちは僕にとって、とても重くなっていたんです。」


いつの間にか握り締めていた手が、白っぽくなっていた。それでもなお、両手を握り締めた。

もう、紅茶は湯気を立てていなくて、人気がないキルシュ亭で、動いているものは少なくなっていた。


僕は、感覚がなくなった両手を見つめながら、ゆっくりと息を吐き出た。そして、言葉を紡いだ。

それは、道端にわざとモノを落とすような、下手くそな言葉の紡ぎ方だった。



「僕の中にあるアカリの存在が、手紙を読んで鮮明になることもありました。

けれど、それとともに、僕が知らなかった彼女の気持ちを知って、どうして僕はもっとアカリの傍にいることが出来なかったのか。

もっとああしていればよかった。こうしていればよかった。いくつもいくつも浮かんでくるんです。それが・・・」



「君のせいじゃないのだよ。」


「・・・それは、分かっています。」


涙は出てこない。出しすぎたんだ今まで。ずっと、身体の中がカラカラになってしまうくらい、出しすぎたんだ。

だからもう、なにも残っていない。



「でも、だからといって僕の気持ちは変わらないんです。」



僕はふっと、小さくて愛しい愛娘の言葉を思い浮かべた。


『パパは、ママにどうしてほしかったの?』


アカリによく似た、けれどやっぱりどこか違う顔立ちをした娘が、僕に向かって問うてきたのはつい先日のことだ。

僕はいつもアカリの存在をサクラを通して探していた。サクラにも気づかせるほどに。


でもやっぱり違う。サクラはアカリじゃない。

当たり前のことなのに、少しでもアカリの面影が映ると、嬉しくて、懐かしくて、愛しくてたまらなかった。


そして、サクラを傷つけた。

いつの間にか、不安を抱かせていた。そんなことにさえ気づかなかった。気づこうとしなかった。




ねえ、サクラ。

僕は、ママに、アカリに会いたくてたまらないんだよ。


生きててほしかったんだよ。ずっと、僕の傍にいてほしかったんだ。

置いて行ってほしくなかった。後を追いたかった。


でもそれ以上に、僕はきっとアカリが憎かったのかもしれない。


思い出になんかさせてくれなかった。ずっと、僕の心の中で成長して、僕を苦しめて。

それが、嫌でたまらなかったのかもしれない。

だから、アカリへの愛おしさが憎しみに変わる前に、僕はアカリを、上手く思い出の箱に閉じ込めておきたいんだよ。




まっすぐに、ハーバルさんを見た。彼は、呆れてもいなかったし、失望しても、悲しんでもいなかった。



「・・・チハヤ君。」

「はい。」



「私の家に残っているアカリ君の手紙は、これが最後なのだよ。」

「・・・・・・。」


「今日、君に渡そうと思っていたのだ。」


シンプルな便箋の真ん中を横切るように書かれた文字が、僕の目に飛び込んできた。

少し斜めで、長細い字。柔らかな筆記。少し震えている頭文字。



ああ、アカリの字だ。


そう分かってしまったら、もうどうしたらいいのか分からなくなった。

びーんと、大きな弦が胸の中で弾かれたみたいだった。じわじわと目じりに雫が溜まってきてしまった。

僕はそれを慌てて手の甲でぬぐった。あれだけ流したのに、どうしてまだ、流れてこようとするのだろう。





これが最後だから。



そう、耳元で囁かれたような気がして、僕は束の間動けなくなってしまった。

空耳かもしれない。幻聴かもしれない。


それでも確かに、ずっと聞きたかったアカリの声が聞こえたような気がした。


ぎゅっと、手を握られて、僕はハーバルさんの方を見た。目の裏には、まだアカリの字がちらついていた。

暖かな、ハーバルさんのビー玉のような瞳が僕を見つめていた。


その瞳が、僕の気持ちを読み取っているかのように、優しく一度瞬きをした。

ふわふわとした雪のような睫がパチリと一度閉じて、舞うようにまた開いた。




「受け取るかどうかは、君次第だよ。」





 back